かつては『スター・ウォーズ』に熱狂し、休日のほとんどを映画館の暗闇の中で過ごしていました。スクリーンに映し出される壮大な物語は、私の日常を忘れさせてくれる最高のエンターテイメントでした。
しかし、今、私の手にあるのは映画のパンフレットではなく、ゲームのコントローラーです。映画が嫌いになったわけでは決してありません。ただ、仕事から帰った後や休日に、気づけばゲームの世界に没頭している自分がいます。なぜ、あれほど映画に夢中だった私が、ゲームに心を奪われるようになったのでしょうか。
この記事では、一人の映画ファンの視点から見たゲームの魅力、映画とゲームの意外な共通点、そして最近の洋画に正直に思うことを、少し長くなりますが、丁寧にお話ししていきたいと思います。
なぜ昔ほど映画を観なくなったのか
映画鑑賞は、今でも私の大切な趣味の一つです。しかし、その向き合い方が以前とは大きく変わってしまったと感じています。かつては、話題作が公開されるたびに映画館へ足を運び、月に3本以上鑑賞することも珍しくありませんでした。気になる作品があれば、たとえ評判が芳しくなくても自分の目で確かめたい、そんな情熱がありました。
ところが最近では、映画館に行く回数がめっきり減り、月に行くか行かないか、という程度にまで落ち込んでいます。もちろん、生活環境の変化もありますが、それ以上に、映画、特に洋画に対するモチベーションが以前ほど湧き上がってこないのが正直なところです。
「この作品は絶対に映画館で観なければ」と思わせてくれるような、心を揺さぶる出会いが減ってしまった。そんな寂しさが、私をスクリーンから少し遠ざけているのかもしれません。では、具体的にどのような点に物足りなさを感じているのでしょうか。
最近のハリウッド映画に感じる
「頭打ち感」とは?
私が主に観てきたのは、ハリウッドが制作する、いわゆる「超大作映画」です。圧倒的な映像技術と莫大な予算を投じて作られるスペクタクルは、映画館という最高の環境で観るにふさわしいものでした。しかし、近年、その超大作映画が「頭打ち」になっているように感じられてなりません。
その最大の要因は、リメイク、リブート、そして続編の多さです。もちろん、人気シリーズの続編には心を躍らせてきましたし、過去の名作が現代の技術で蘇ることに期待もしました。しかし、最近はその数が過剰に思えます。まるで、過去の遺産に頼り切っているかのように、かつての人気キャラクターや俳優を起用した、同窓会のような作品が目立ちます。
配給会社にとって、既に知名度のある作品を手がける方が、商業的な成功を見込みやすいのは理解できます。全く新しい物語を一から作り、ヒットさせるのは途方もない労力とリスクが伴うでしょう。しかし、その結果として生まれる作品は、どこかで観たような展開や、予定調和の結末に終始しがちです。肝心の「物語」そのものが、プロモーションの二の次になってしまっているのではないでしょうか。
せっかく時間とお金をかけて映画館に足を運んだのに、想像をかき立てられることも、価値観を揺さぶられることもなく、ただ「映像はすごかったね」という感想だけで終わってしまう。そんな体験が増えるにつれ、次第に映画館へ向かう足は重くなっていきました。
洋画は日本で観られにくくなった?
ハリウッド映画のマンネリ感に加えて、日本国内における洋画の立ち位置の変化も、私が映画から離れつつある一因かもしれません。かつて、映画館のスクリーンは『ハリー・ポッター』シリーズやディズニー作品といった洋画が席巻していました。しかし、現在の興行収入ランキングを見ると、その上位のほとんどが「名探偵コナン」や「鬼滅の刃」といった国産のアニメーション映画が占めています。
日本の観客の嗜好が変化し、国内のアニメ作品がエンターテイメントとして非常に高いレベルに達した結果でしょう。それは素晴らしいことですが、裏を返せば、日本市場における洋画の需要が相対的に低下したことを意味します。需要が減れば、当然、日本に入ってくる洋画の数や種類も限られてきます。
アメリカ本国で大ヒットしていても、有名俳優が出演していなければ日本では公開されない。あるいは、インディーズ系の尖った作品や、批評家から絶賛されているにもかかわらず日本では無名の監督の作品などは、そもそも日本に上陸する機会すらありません。私たちが日本で触れられる洋画は、世界中の作品のごく一部でしかないのです。
結果として、私たちは配給会社によってフィルタリングされた、一部の「売れそうな」大作ばかりを観ることになり、新たな才能や多様な物語に出会う機会を失っているのかもしれません。
エンターテイメントに「思想」は必要?
これは非常にデリケートな問題であり、あくまで個人的な意見として聞いていただきたいのですが、近年のいくつかの作品において、過度なポリティカル・コレクトネス、いわゆる「ポリコレ」が、物語の面白さを損なう要因になっていると感じることがあります。
多様性の尊重は、現代社会において非常に重要な価値観です。しかし、それがエンターテイメント作品に持ち込まれる際、あまりに性急であったり、物語の整合性を無視してまで特定のメッセージを押し出そうとしたりすると、観客は戸惑いを覚えてしまいます。キャラクターの行動や物語の展開が、作り手の伝えたい「思想」に奉仕するための道具に見えてしまうのです。
例えば、長年のファンを持つ『スター・ウォーズ』やディズニーの一部の作品では、物語の根幹を揺るがすようなキャラクター設定の変更や、唐突なメッセージ性の注入によって、従来のファンが置いてきぼりになるような事態が起きました。作品が、純粋な物語を楽しむ場ではなく、特定の活動家が主張を披露する場のように感じられてしまう瞬間があります。
もちろん、映画が社会的なメッセージを発信すること自体を否定するつもりはありません。しかし、それが物語の面白さや没入感を犠牲にしてまで行われるべきなのか、という点には疑問を感じます。
配信サービスは映画鑑賞の敵?
VOD(ビデオ・オン・デマンド)サービスの普及は、私たちの映像鑑賞スタイルを劇的に変えました。かつては、映画を観るためには映画館に行くか、レンタルショップに足を運ぶ必要がありました。特に、大迫力の映像と音響を体験できるのは映画館だけの特権でした。
しかし今では、自宅のテレビやスマートフォンで、いつでも好きな時に膨大な数の映画を鑑賞できます。この手軽さは、間違いなく大きな恩恵です。その一方で、この手軽さが、私を映画館から遠ざけ、ひいては映画鑑賞そのものから遠ざける一因になったとも感じています。
「観たい映画があるけれど、まあいいか。どうせ数ヶ月後には配信されるだろう」
そう考えて映画館行きを見送った結果、配信が始まっても結局観ずに終わってしまう。そんな経験はないでしょうか。配信サービスには「いつでも観られる」という安心感がある反面、
「今観なければ」という切迫感がありません。そして、私たちの時間は有限であり、次から次へと新しいコンテンツが現れるため、「後で観よう」と思った作品は、記憶の彼方に流されてしまいがちです。
さらに、配信サービスでの鑑賞は、途中で中断することがあまりにも簡単です。少しでもテンポが悪いと感じたり、退屈なシーンが続いたりすると、すぐに再生を停止し、別の作品を探したり、SNSを開いたりしてしまいます。映画館であれば、良くも悪くも2時間拘束されるため、たとえ序盤が退屈でも、クライマックスで全てが覆るような感動を味わえる可能性がありました。しかし、配信サービスでは、その「面白くなる前」に視聴をやめてしまうケースが増えているように思います。1分程度のショート動画が主流になる現代において、2時間という時間を一つの作品に捧げ続ける集中力そのものが、社会全体で失われつつあるのかもしれません。
もし配信サービスがここまで普及していなければ、私は「映画を観るなら映画館」という習慣を、今でも続けていたかもしれない、と時々考えます。
私がゲームに夢中になった理由
こうして映画鑑賞に費やしていた時間が、少しずつゲームをプレイする時間へと置き換わっていきました。ゲームには、今の私が映画に感じている物足りなさを埋めてくれる、いくつかの決定的な魅力がありました。
その一つが、自分のペースで楽しめる「区切りの良さ」です。映画は基本的に、一度再生したら最後まで観続けることが前提のコンテンツです。しかしゲームは、自分の好きなタイミングで中断し、また好きな時に再開できます。今日はこのクエストだけ進めよう、あと30分だけレベル上げをしよう、といったように、自分の生活リズムや気分に合わせて没入度を調整できるのです。これは、まとまった時間を確保しにくい社会人にとって、非常に大きな利点です。
そして何より大きいのが、ゲームが「能動的」な体験であるという点です。映画鑑賞は、作り手が提示する物語を受け取る「受動的」な体験です。もちろん、そこから様々な感情や思索が生まれますが、物語の進行そのものに自分が介入することはできません。
一方、ゲームはプレイヤー自身がキャラクターを操作し、物語に介入し、世界を探索します。困難なボスを何度も挑戦の末に打ち破った時の達成感。コツコツとキャラクターを育成し、思い通りの強さを手に入れた時の満足感。あるいは、ソーシャルゲームのガチャで、ずっと欲しかったレアキャラクターを引き当てた時の高揚感。これらは、自らが「行動」した結果として得られる報酬であり、映画を観ているだけでは決して味わうことのできない種類の喜びです。
映画とゲーム、2つの意外な共通点とは?
一見すると、受動的な映画と能動的なゲームは全く異なるエンターテイメントのように思えます。しかし、私が両方に惹かれるのには、いくつかの共通点があるからだと気づきました。
一つ目は、何かに「没頭する」という感覚です。素晴らしい映画を観ている時、私たちは時間や現実世界を忘れ、完全に物語の世界に入り込みます。それはまるで、夢の中にいるような体験です。そして、この感覚は、ゲームに夢中になっている時にも同じように訪れます。広大なオープンワールドを探索している時、複雑な謎解きに挑んでいる時、手に汗握る対戦に集中している時、私たちの意識は完全にゲームの世界に囚われています。この、日常を忘れて別の世界にトリップする感覚こそ、私がエンターテイTメントに求める最も大きな要素なのかもしれません。
二つ目は、映像表現における親和性です。特に私が好んで観てきたハリウッド映画は、最先端のVFXを駆使した映像美や、爽快なアクションシーンを大きな魅力としています。このグラフィックへのこだわりや、観る者を圧倒するビジュアルという点は、現代のハイクオリティなゲームと非常に近いものがあります。
さらに言えば、ディズニー・ピクサーの3Dアニメーション、最近だと『スパイダーマン:スパイダーバース』シリーズ、あるいは『スター・ウォーズ:クローン・ウォーズ』といった3DCGアニメーション作品は、もはや実写映画よりもゲームの世界観に近いとさえ感じます。デフォルメされつつもリアルな質感を持つキャラクターや美術は、そのまま最新のゲームに登場しても違和感がありません。映画で培われた映像技術がゲームに応用され、ゲームで進化した表現が映画にフィードバックされる。この相互作用が、両者の境界をますます曖昧にしているのです。
まとめ
長くなりましたが、私が映画好きからゲーム好きへとシフトしていった理由と、最近の映画界に思うことをお話ししてきました。最後に、この記事の要点をまとめておきたいと思います。
- 映画鑑賞への熱意が減った理由
- 大作映画のマンネリ化:
リメイクや続編に偏り、過去の遺産に頼った作品が増えたことで、物語の新鮮な驚きが減少しました。 - 日本での洋画市場の変化:
国産アニメ映画の人気により、日本で観られる洋画の種類が限られ、多様な作品に出会う機会が減っているように感じます。 - 過度なメッセージ性:
一部の作品で、物語の面白さよりも思想的なメッセージが優先されているように感じられ、純粋に楽しめないケースがありました。 - 配信サービスの普及:
「いつでも観られる」という手軽さが、「今観なくてもいい」という気持ちにつながり、結果的に映画を観る機会そのものが減少しました。
- 大作映画のマンネリ化:
- ゲームにハマった理由
- 能動的な体験:
自分で操作し、物語に介入することで得られる達成感や高揚感は、受動的な映画鑑賞では得られない魅力です。 - 自分のペースで楽しめる:
好きな時に中断・再開できるため、生活リズムに合わせて気軽に楽しめる点が現代のライフスタイルに合っていました。
- 能動的な体験:
- 映画とゲームの共通点
- 没頭する感覚:
日常を忘れて作品世界に深く入り込む体験は、両者に共通する最大の魅力です。 - 映像表現の親和性:
特にハリウッド映画のVFXや3DCGアニメーションは、現代のゲームのグラフィックと非常に近い世界観を持っています。
- 没頭する感覚:
もちろん、今でも映画への愛情が消えたわけではありません。映画館の暗闇の中で、素晴らしい物語に出会い、時間を忘れるほどの体験ができることを心から願っています。
ただ、エンターテイメントの選択肢が爆発的に増えた現代において、私の心がより強く惹かれる対象が、たまたまゲームだったということです。もしかしたら、あなたにも同じような経験があるかもしれません。映画もゲームも、私たちの人生を豊かにしてくれる素晴らしい文化です。これからも、自分なりのバランスで、両方の世界を楽しんでいきたいと思っています。